第二章 王と兵士の入れ替わり
翌朝。
王宮の鐘――溶岩の蒸気を利用した、独自の鐘楼の音が、ゴオン、と低く響いた。鶏の鳴かないネザーで、それは唯一の「朝の合図」だった。
「本当にやるの?」
オーレックスは、困った顔をしていた。
「もちろんだ!」
スターリンは、すでに上機嫌だった。
「一日くらい、王様休暇ってやつだ!」
「君は昨日からそればっかりだ。」
ピックバーグは、深く溜息をついた。眼鏡を拭く手つきにまで、呆れが滲んでいた。
「だいたい、そんなことができるわけ……。」
その時。
昨日、報告書を持ってきた若い親衛隊員が、ちょうど通路を歩いてきた。
「おはようございます、陛下!」
「今日も警備を……」
「お前!」
スターリンが、指を差す。獲物を見つけた猟師のような目だった。
「名前は?」
「は、はい!」
兵士は、突然指名されて、背筋をピンと伸ばした。
「親衛隊第三中隊所属!」
「レッドと申します!」
まだ二十歳そこそこの、若い兵士だった。声には、生真面目さと、わずかな緊張がにじんでいた。
「よし!」
「今日だけ、お前が王様だ!」
「……はい?」
レッドは固まった。
「え?」
オーレックスも固まった。
「え?」
ピックバーグも固まった。
「え?」
庭園に流れていたはずの平和な空気が、その瞬間だけ、見事に静止した。グロウベリーの花だけが、何も知らずに、ゆらゆらと光っていた。
三十分後。
「ど、どうでしょうか……。」
黄金のマント。
王冠。
豪華な刺繍の入った正装。
完全に国王の姿となった、レッド。
しかし、当人の表情は、王というより、初めて重い剣を持たされた新兵のそれだった。冠の重みに、首が、わずかに傾いていた。
「似合うじゃねえか!」
スターリンは、大笑いした。
「駄目だ。」
「絶対駄目だ。」
ピックバーグは、頭を抱えた。冷静な研究者の顔が、完全に崩れていた。
「大丈夫だよ。」
オーレックスは、笑った。
「今日は会議もないし。」
「何事も経験だよ。」
「いや、そういう問題じゃ……。」
ピックバーグの抗議は、いつものように、誰にも届かなかった。
一方。
オーレックスは、簡素な親衛隊の制服に袖を通していた。
「へぇ。」
「これが親衛隊の制服か。」
白い制服。
赤いマント。
鉄の剣。
王の正装よりも、ずっと軽かった。その軽さが、不思議と心地よかった。何年ぶりかで、肩の力が抜けた気がした。
「似合ってるぜ!」
スターリンが笑う。
「陛下。」
「意外と普通の兵士っぽいな!」
「だから陛下じゃないって。」
「今日はレックスって呼んで。」
「はっはっは!」
「了解!」
「兵士レックス!」
その名前を、口の中で小さく繰り返してみる。レックス。普通の名前だった。普通であることが、今だけは、何より新鮮だった。
そして。
偽の国王レッドは、緊張しながら、玉座に座った。
座面が、思っていたよりも硬かった。背筋を伸ばさなければ、すぐに滑り落ちてしまいそうだった。
「ひぃぃ……。」
「王様ってこんな大変なんですか……。」
「頑張れ。」
ピックバーグは、笑いをこらえながら、励ますふりをした。励ましというより、もはや見物だった。
すると。
大臣たちが、続々と入ってきた。
「陛下!」
「おはようございます!」
「ひゃい!」
「ひゃい?」
「……。」
会議室が、しんと静まり返った。蝋燭の芯が小さく爆ぜる音だけが、その静寂を埋めた。
「陛下?」
「どこかお加減でも?」
「だ、大丈夫です!」
「本日も!」
「PIGLIN KINGDOMのために!」
「頑張ります!」
「おお!」
「素晴らしい!」
「今日の陛下は元気ですな!」
大臣たちは、すっかり納得して頷き合っていた。長年の伝統というのは、案外、こういう些細なところで簡単に信じられてしまうものらしい。
レッドは、心の中で、静かに泣いていた。
(帰りたい……。)
その後、机に積まれた書類の山を前に、レッドは何度も判を押す手を止めた。一枚、間違った場所に押してしまい、慌てて隠そうとして、さらに別の紙を汚した。ピックバーグが、それを横目で見ながら、何も言わずに新しい紙を差し出した。優しさというよりは、効率の問題だった。
一方。
兵士レックスことオーレックスは、王都の通りを歩いていた。
「東地区異常なし!」
「よし。」
「次は市場だ。」
誰も気付かない。
彼が国王だとは。
すれ違う人々が、当たり前のように目礼を返してくる。それすら、新鮮だった。王として頭を下げられることとは、まったく違う種類の、温かいやり取りだった。
「こんにちは!」
パン屋のおばさんが、店先から声をかけてきた。
「今日も警備ご苦労さま!」
「ありがとう。」
オーレックスは微笑む。
「これ。」
「焼きたて!」
香ばしい匂いが、湯気と共に立ち上る。
「え?」
「お金……。」
「いいのよ。」
「いつも守ってくれてるもの。」
「ありがとう。」
オーレックスは、少し嬉しくなった。受け取ったパンは、まだ温かかった。
そのまま歩いていると、道の端で、年老いたピグリンが、重そうな荷物を担いで、難儀している姿が見えた。
「お手伝いします。」
「おお、すまんね、兵士さん。」
荷物は、思っていたよりも軽かった。けれど、老人の「ありがとう」という言葉の重さは、玉座で受け取るそれとは、まるで違う響きを持っていた。
「兵士って。」
「こんな風にみんなに支えられてるんだ。」
剣を抜いたことのない一日だったのに、不思議と、剣を抜いた日々と同じくらい、心が満たされていくのを感じた。
その頃。
王宮。
「た、大変です!」
レッドは叫んでいた。
「書類が多すぎます!」
「助けてください!」
スターリンは、椅子から転げ落ちそうになりながら笑った。
「はっはっは!」
「王様って大変だろ!」
「陛下は毎日これを……?」
「はい。」
ピックバーグは、真顔で答えた。
「しかも今日は少ない方。」
「うそぉ……。」
レッドは、机に額をつけたまま、もう一度泣きそうになった。
夕方。
兵士レックスは、王都西地区の噴水広場へやって来た。
オレンジ色の光が、噴水の水面で乱反射していた。光の粒が、まるで小さな祝祭のように、地面まで撥ね返っていた。
すると。
「きゃっ!」
誰かの声。
本が大量に、地面へ落ちた。古い革表紙のもの、新しい紙の匂いのするもの。「冒険記」と書かれた背表紙が、ちらりと見えた。
「あ!」
「ご、ごめんなさい!」
慌ててしゃがみ込む、一人の少女。
茶色の髪が、夕日を受けて、ほのかに赤く染まっていた。
白い帽子。
優しい目。
そして、たくさんの本。
「あ、大丈夫?」
オーレックスも、しゃがみ込んだ。
「手伝うよ。」
「ありがとうございます。」
少女は微笑んだ。
「……。」
オーレックスは、一瞬、言葉を失った。
夕日に照らされたその笑顔は、今まで見てきた、どんな宝石よりも――黄金の冠よりも――美しく見えた。
不思議だった。剣を交えた幾多の戦場でも、こんなふうに、時間が止まったように感じたことはなかった。
そして。
これが、後に王妃となる少女との、最初の出会いになることを、まだ二人は知らなかった。