PIGLIN KING
第五巻 王家の物語
第一章 再会
王国歴十五年。
ネザーに春は来ない。
それでも、グロウベリーの蔓が一斉に花を開く時期があり、人々はいつからか、それを「春」と呼ぶようになっていた。
王都 GOLDEN BASTION。
王立図書館。
あの噴水広場での出会いから、季節のないネザーで、それでも確かに一年近い月日が流れていた。
王として、果たすべき公務は、年々重くなっていった。会議。視察。式典。書類。気付けば、「レックス」として街へ出る時間は、ずっと少なくなっていた。それでも、上着の内側にしまった、あの小さな押し花の栞だけは、いつも肌身離さず持っていた。
「うーん……。」
KING PIGLIN I。
Aurex Goldtuskは、本棚の前で腕を組んでいた。
「歴史書……。」
「古代文明……。」
「どこだったかな。」
久しぶりに訪れた図書館は、記憶よりも本棚が増えていた。棚と棚の間に差し込む光が、埃の粒子をきらきらと照らしていた。
すると。
「失礼します。」
隣から、優しい声が聞こえた。
「もしかして。」
「『古代ネザー文明史』ですか?」
「え?」
オーレックスが振り向く。
そこにいたのは。
茶色の髪。
白い帽子。
優しい瞳。
一年前と、何も変わらない――いや、わずかに大人びた、その姿。
「……リリア?」
少女も目を丸くした。
「レックスさん!」
二人は思わず笑った。あの夕暮れの噴水広場以来、止まっていた何かが、もう一度動き始めるような笑い方だった。
「久しぶり。」
「お久しぶりです。」
「元気だった?」
「はい!」
「レックスさんは?」
「うん。」
「元気。」
その「元気」という一言の裏に、王としての多忙な日々がぎゅっと押し込まれていることを、リリアは知らなかった。けれど、知らなくていい。今だけは、ただの「レックス」として、ここに立っていたかった。
二人は自然と笑顔になっていた。
第二章 本好き
「あの。」
「よかったら。」
「一緒に探しますか?」
「いいの?」
「もちろんです。」
二人は並んで本棚を探し始めた。背の高い棚が並ぶ通路は、まるで小さな迷宮のようだった。けれど、迷宮を歩くことに、二人ともまったく不安を感じていなかった。
「この本、おすすめですよ。」
「へぇ。」
「面白そう。」
「この作者さん、好きなんです。」
「僕も。」
「え?」
「本当?」
「うん。」
「好き。」
「わぁ!」
リリアは嬉しそうに笑った。その笑顔は、噴水の水しぶきよりも、ずっと無邪気に弾けた。
本棚の隙間から差し込む光が、少しずつ角度を変えていった。それが、時間が流れている唯一の証だった。
朝の光は、白く澄んでいた。
昼の光は、本のページに、まっすぐ落ちていた。
夕方の光は、いつの間にか、橙色に染まっていた。
気が付けば。
昼になり。
夕方になり。
閉館時間になっていた。
「あっ!」
「もうこんな時間!」
「本当だ。」
「ごめん。」
「つい夢中になっちゃった。」
「私もです。」
二人は顔を見合わせて笑った。誰かと過ごす時間が、こんなに早く流れることを、オーレックスは久しく忘れていた。会議室で過ごす時間は、いつも、ひどく長く感じられたから。
第三章 お忍び
翌日。
「また会える?」
オーレックスが聞いた。
「はい!」
「ぜひ!」
それから。
二人は何度も会うようになった。
市場。
王立公園。
噴水広場。
図書館。
オーレックスは兵士「レックス」として。
リリアはいつものリリアとして。
平和な日々を過ごした。
市場では、果実を売る店先で、見たことのない実を二人で覗き込んだ。公園では、ベンチに並んで座り、互いの好きな本を朗読し合った。噴水広場では、出会った日のことを、何度も思い出すように、二人で笑った。図書館では、相変わらず時間を忘れた。
「このケーキ美味しい!」
「本当だ。」
「甘い。」
「レックスさん。」
「甘いもの好きなんですね。」
「結構。」
「ふふふ。」
「意外です。」
戦場で剣を振るう男が、実は人知れず甘いものに目を細める――そんな一面を知る人間は、世界に数えるほどしかいなかった。リリアは、その数少ない一人になっていった。
そんな時間が、オーレックスには何より大切だった。冠の重さも、会議の長さも、その時間の中では、不思議と軽くなった。
第四章 二人を見守る者たち
王宮。
「おーい。」
スターリンは双眼鏡を覗いていた。バルコニーの欄干に身を乗り出し、まるで遠征の偵察でもしているような顔つきだった。
「今日も行ったぞ!」
「市場だ!」
「やめなよ。」
ピックバーグは呆れていた。
「君。」
「完全に近所のおじさんだよ。」
「いいじゃねぇか!」
「青春だぞ!」
「青春。」
「いい響きだ。」
ピックバーグは、紅茶を片手に、半分だけ呆れた目で、半分だけ温かい目で、双眼鏡を構えるスターリンを見ていた。誰よりも豪快なこの男が、誰よりも誰かの幸せを喜ぶ性分だということを、彼はよく知っていた。
すると。
オーレックスが帰ってきた。
「ただいま。」
「おっ。」
「どうだった?」
スターリンがニヤニヤする。
「何が?」
「何がじゃねぇ!」
「リリアちゃんだよ!」
「ぶっ!」
オーレックスは咳き込んだ。
「な、なんで知ってるの!?」
「顔。」
「真っ赤。」
ピックバーグが冷静に言う。
「君。」
「分かりやすすぎる。」
「うぅ……。」
オーレックスは顔を覆った。冠を被って戦場に立つ時よりも、よほど狼狽していた。
すると。
スターリンは豪快に笑った。
「はっはっは!」
「いいじゃねぇか!」
「恋する黄金王!」
「やめて!」
「それだけはやめて!」
三人の笑い声が王宮に響いた。古い石壁が、その笑い声を、何度も柔らかく跳ね返した。
第五章 また明日
夕暮れ。
噴水広場。
水面が、橙色の光を割れた鏡のように散らしていた。
「今日は楽しかったです。」
リリアは微笑んだ。
「僕も。」
「また明日?」
「はい!」
「また明日。」
少女は手を振り、夕焼けの中へ消えていった。後ろ姿が、噴水の光と夕日の光の両方を浴びて、ほんの少しだけ輝いて見えた。
その姿を見送りながら、オーレックスは自然と笑顔になっていた。
戦争もない。
敵もいない。
ただ、大切な人と笑い合える。
それだけで、こんなにも幸せになれる。
剣を抜いて得た平和の先に、こんな静かな喜びが待っていたとは、あの炎の夜には、想像もできなかった。
しかし。
彼はまだ知らなかった。
リリアが、すでに気付いていることを。
「レックスさん。」
帰り道。
リリアは小さく呟いた。夕焼けに染まった一本道を歩きながら、独り言のように。
「やっぱり……。」
「王様ですよね?」
その声は、誰にも届かなかった。けれど、確かに、何かが動き始めていた。
そして。
王国最大の秘密は、思わぬ形で明らかになろうとしていた。