第九章 二人の静けさ
王国歴六十五年。
スターリンが旅立ってから、三年。
庭園は相変わらず、朝に花を開かせていた。
しかし。
「静かになったね。」
オーレックスが呟いた。
「そうだね。」
ピックバーグは本を閉じた。「うるさい人がいなくなった。」
二人は少し間を置いてから、笑った。
笑い始めるのが、一拍遅かった。
誰かに笑いをつけてもらわなければ、笑い始められないのだと、初めて気づいた。スターリンはいつも、その役割だった。自分でも気づいていなかっただろうが。
「今頃、向こうでも騒いでるかな。」
「きっと。天国の門番に怒鳴られてる。」
「ははは。」
二人は笑った。
笑いながら、少しだけ目が潤んだ。
それも、笑いのうちだった。
ある夜。
ピックバーグが、一冊の本を持ってきた。
「これ。」
分厚い、手書きの本だった。革表紙に、タイトルがなかった。
「何、これ。」
「スターリンへの手紙。」
オーレックスは目を見開いた。
「あの男はいつも先に喋るから、こちらが考えている間に話題が変わって、言いそびれることが多かった。だから書いた。生きているうちに言えなかったことを、ずっと書き溜めてた。」
「……。」
「お前に読んでほしい。」
「いいのか?スターリンへの手紙なのに。」
「お前に読んでほしくて書いたようなものだから。」
オーレックスは、その本を受け取った。
重かった。紙の重さではなく、言葉の重さだった。
その夜。
月明かりの下で、オーレックスはその本を読んだ。
笑い飛ばしてきたことへの感謝。不器用だったことへの謝罪。「ありがとう」と言えなかった代わりに書き続けた言葉。
言いそびれた全部が、何百ページにも渡って書かれていた。
不器用な、しかし誠実な、研究者の文体で。
「……馬鹿野郎。」
オーレックスは呟いた。
泣きながら。笑いながら。
「言えばよかったじゃないか。あいつ、絶対喜んだのに。」
翌朝。
「読んだ。」
「……そうか。良かった。」
二人は庭で紅茶を飲んだ。
何も言わなかった。
それで、十分だった。
スターリンがいなくなってから、不思議なことがあった。
何か面白いことがあった時。何かに大笑いした時。
反射的に、横を見てしまう。
「これ、スターリンが聞いたら笑うだろうな。絶対うるさく反応するやつだ。」
そう思って、横を見る。いない。
そのたびに、ほんの一瞬、胸に何かがひっかかる。
悲しみではない。懐かしさでもない。それより少し温かい、何か。
「スターリンがいると、笑う頻度が増えていたんだな。」
ピックバーグが言った。
「増えてた。あの男は、笑いを作るのが上手だった。意図しないで。」
「意図しないで、が大事だな。意図してたら、あんなに笑えない。」
二人は、また笑った。遅い一拍の後で。しかし、確かに、笑った。
第十章 記録者の遺言
王国歴六十八年。
秋。
ピックバーグは、最近よく庭に出た。
本を持って、ベンチに座って、ゆっくりと読んでいた。
いつもより、ゆっくりと。
ページをめくる速度が、少し遅くなっていた。目のせいかもしれなかった。しかし、それだけでもないと、オーレックスには分かった。
「その本。何を読んでるの。」
「古代ヴォールト文明の資料だよ。」
「まだ読んでるの?五十年以上研究して。」
「まだ分からないことがある。この石材の成分は、現在の技術では再現できない。なぜ何千年経っても崩れないのか。一生かかっても、分からないことがある。それが面白い。」
「……そういう人だよ、君は。ずっと。」
「そうだね。ずっと。」
ピックバーグは本を置いた。
「ねえ。」
「ん。」
「忘れられた砦の冠。あの時の話を、聞かせてくれないか。文献は全部知ってる。記録も全部書いた。でも。君の言葉で聞いたことは、なかった気がして。あの時、冠に触れて、何を感じたか。」
オーレックスは少し考えた。
「怖かった。」
「え?」
「王様になる気なんて全然なかったから。覚悟がなかった。でも、手が動いた。」
「なぜ?」
「……分からない。あの冠が必要としていたんじゃないかな。王様になる人間じゃなくて。誰かのために動ける人間を。」
「……そうか。」
ピックバーグは目を閉じた。
「それで納得した。ずっと気になってたんだ。なぜ冠はお前を選んだのか。力があったからか、賢かったからか。どれも違うと思ってた。」
「そうだった。誰かのために動ける、という、それだけが理由だった。」
沈黙。
「ありがとう。最後に、それを聞けてよかった。」
「最後って。そんな風に言わないで。」
「事実を語るのが僕の仕事だよ。」
「……。」
「眠くなったら、少し休む。起こさなくていい。」
「いつもは起こすだろ。」
「今日は、起こさなくていい。」
「……分かった。」
午後の光が、庭園に差し込んでいた。
ピックバーグは、お気に入りの本を胸に抱いた。
古代ヴォールト文明の、あの本だった。一生をかけて研究し続けた、あの本だった。
目を閉じた。
いつもより静かな、穏やかな表情で。
呼吸が、ゆっくりになった。
ゆっくりと。
静かに。
「ピックバーグ。」
しばらくして、オーレックスは呼んだ。
「……。」
返事はなかった。
庭の花が揺れていた。空が、橙色に染まり始めていた。
オーレックスはその場を離れなかった。
長い間。ただ、そこにいた。
やがて静かに言った。
「スターリンのところへ、行って。」
「あいつ、きっとまだ騒いでる。止めてやってくれ。」
「……じゃないと向こうが迷惑だろ。」
風が吹いた。
「ありがとう。」
「親友。」
翌日の朝。
オーレックスは一人、庭に出た。
ベンチに座った。紅茶を飲んだ。
いつもの席。いつもの時間。
しかし、隣は、二つとも空いていた。
「……静かだな。」
誰もいない庭に、声が吸い込まれた。
しばらくして、小さく笑った。
「うるさくなった頭の中で、二人ともまだ喋ってるから。静かにはならないな。」
花が揺れた。
光が差した。
オーレックスは紅茶を、ゆっくりと飲んだ。
第十一章 永遠の黄金王
王国歴七十五年。
春。
九十余歳となったオーレックス。
白髪の、穏やかな老人。
しかし。
その笑顔だけは、若い頃と変わらなかった。
黄金の牙が、春の光に、今日も静かに輝いていた。
毎朝、庭に出た。
紅茶を飲んだ。花を眺めた。
「今日も来たよ。スターリン。ピックバーグ。」
誰かに話しかけるように呟いた。返事はなかった。しかし、風が吹くと、花が揺れた。
それで十分だった。
孫たちが来ると、オーレックスは何度でも昔話をした。
「おじいさま!昔のお話聞かせて!」
「また?」
「うん!また!」
「仕方ないな。それじゃ。昔々。まだ僕が王様じゃなかった頃の話。スターリンっていう、世界一うるさい友達がいてね。あと、眼鏡をかけた、世界一賢くて少し皮肉な友達も。」
リリアが笑った。「本当に。賑やかな人たちでしたね。」
「最高の親友たちだった。」
ある日、一人の孫が聞いた。
「おじいさまは、怖くなかったの?戦争の時。」
「いつも怖かったよ。」
「怖かったのに、どうして戦ったの?」
「誰かが戦わないといけなかったから。それと。スターリンが行くから。ピックバーグが一緒だから。一人じゃ、怖くて無理だったかもしれない。でも、二人がいれば、怖くても動けた。」
「それが友達の力ってこと?」
「そうかもしれない。」
孫は少し考えてから言った。
「じゃあ、私も友達を大事にする。」
「……うん。」
オーレックスは、しっかりと頷いた。
「それが一番大事なことだよ。」
第十二章 春の日
王国歴七十五年。
春の朝。
庭園に光が差し込んでいた。
グロウベリーが、今年も実をつけていた。
押し花の栞を、オーレックスは手のひらに乗せていた。
もうすっかり色が褪せていた。花弁が何だったかも、分からないほどに。
しかし、温かみだけは残っていた。
噴水広場で、夕日に照らされた少女が「また会えますか?」と言った日のことが、鮮やかだった。あの時の空気の温度と、光の色と、水の音だけが、今も鮮やかだった。
「あなた。」
リリアが隣に座った。
「また持ってる。」
「そりゃ。ずっと持ってるんだから。最初の日から一度も手放したことない。」
「……知りませんでした。」
「内緒にしてたから。」
「今ごろ言うんですか。」
「今だから言えるんだよ。」
二人は笑った。
「幸せでしたか?」
リリアが尋ねた。静かな声で。
オーレックスは、ゆっくりと頷いた。
「うん。」
「すごく。」
「戦争も。冒険も。辛いこともあった。失ったものも、たくさんあった。」
「でも。」
「全部が。」
「全部。」
「幸せだった。」
「私もです。ありがとう。オーレックスさん。」
かつて大戦を終わらせた時に、黄金の冠がもたらしてくれた地上の奇跡。ゾンビになる呪いを退けるその光のおかげで、今こうして、リリアと一緒に美しい世界を見上げることができている。
空が青かった。
雲がゆっくりと流れていた。
その時。
どこかから、懐かしい声が聞こえた気がした。
『おーい!遅い!』
『君は本当にマイペースだね。』
オーレックスは微笑んだ。
「今行く。」
「スターリン。ピックバーグ。」
「もう少しだけ、待っていてくれ。」
リリアの手を、握った。
温かかった。
その温もりの中で、目を閉じた。
金色の光が、瞼の裏に広がった。
忘れられた砦の、あの光だった。
冠の輝きが、見えた。
そして声が聞こえた。
遠く、確かに。
『希望そのものである。』
そうか、と思った。
ずっと、これだったのか。
これが希望だった。
冠の重さではなく。 戦いの勝利でもなく。
誰かの手の温もりが。 友の笑い声が。 家族の顔が。
全部が、希望だった。
全部が、黄金だった。
KING PIGLIN I。
Aurex Goldtusk。
黄金王。
世界を救った英雄。
PIGLIN KINGDOM建国王。
彼は、愛する人の手を握りながら、静かに目を閉じた。
その表情は、若い日のように穏やかだった。
長い旅の末に、ようやく帰ってきたような。
そんな顔だった。
終章
数日後。
王都 GOLDEN BASTION。
数千万の国民が集まった。
王国史上最大の国葬。
鐘が鳴った。花びらが舞った。
兵士も。子供も。老人も。誰もが涙を流した。
「ありがとう。陛下。」
「ありがとう。黄金王。」
そして。
アウレル・ゴールドタスクは、父から受け継いだ黄金の冠を、静かに掲げた。
「父上のような王になります。」
「民を愛し。」
「平和を愛し。」
「希望を守ります。」
冠は、変わらず、軽かった。
その軽さが、何を意味するか。
アウレルには、もう、分かっていた。
時代は進む。
人は変わる。
王も変わる。
それでも。
受け継がれていくものはある。
友情。
家族。
愛。
そして。
希望。
PIGLIN KING
第六巻 永遠の黄金王
完