PIGLIN KING
第六巻 永遠の黄金王
第一章 変わらぬもの
王国歴五十五年。
春。
王宮の庭園に、今年もグロウベリーが花をつけた。
植えた者の名など、もう誰も覚えていない。それでも花は咲く。毎年、変わらず、同じ場所で、同じ色で。咲くことが義務ではなく、ただの喜びであるかのように。
光の粒が、蔓の先で丸く実を結び、風もないのに、わずかに揺れている。
「いたたたた……。」
スターリンがベンチから立ち上がろうとして、盛大に顔をしかめた。
白くなった顎鬚。
節くれ立った大きな手。
それでも体格だけは立派な、「大きな老人」。
人間ならとっくに動けなくなっている歳だが、黄金の冠がもたらす『世界の調和の加護』が、三人の肉体にまだかすかな活力を与えているようだった。
「腰か。」
「うるせぇ。」
オーレックスは紅茶を一口含んだ。温かかった。侍女が毎朝欠かさず淹れてくれる。その小さな習慣だけで、朝が穏やかになる気がした。
「昔はエンダードラゴンに向かって走っていった男が。」
「比べるな。あれは四十年前だ。」
「四十二年前だけどね。」
ピックバーグが本のページから目を離さずに訂正した。
眼鏡が、以前の細い金縁から、黒縁の分厚いものに変わっていた。白髪は「増えた」という段階を通り越し、髪全体が白になっていた。しかし、その奥の目だけは――遺跡の罠を一瞬で見抜いた、あの鋭い目だけは――まったく変わっていなかった。
「正確に言うな。」
「事実は事実だよ。」
「お前はそういうとこだぞ。」
「どういうとこ?」
「全部正確に覚えてるとこだ。」
「それの何が悪い。」
「悔しい。」
「それが悔しいの?」
三人は笑った。
笑い始めるのが誰からかも、もう分からなかった。誰かが笑えば、全員が笑う。あの路地裏から、あの砦から、ずっとそうだった。
変わらないものが、確かにある。
それが、何より嬉しかった。
庭園の片隅に、石のベンチがある。
縁が、五十年の歳月で少し丸みを帯びていた。ここでオーレックスは何度お茶を飲んだろう。何度本を読んだろう。何度誰かと笑い合っただろう。
記憶には形がない。
しかし、石には、形が刻まれている。
長く座り続けた人間の重さが、石に少しずつ染み込んでいく。そうして、記憶は場所になる。
「あの子、今頃何歳になったかな。」
オーレックスは呟いた。
「どの子?」
スターリンが首を傾ける。
「昔、ここで花をくれた子。」
ずいぶん昔、小さな女の子が走ってきて、グロウベリーの花を一輪差し出した。「王さま、プレゼント!」と言いながら。あの笑顔の光が、今も庭のどこかに溶け込んでいる気がした。
「もう大人になってる。子供がいてもおかしくない。」
「そうか。早いな。」
「そうだね。」
早い、と言いながら、五十年という歳月に早いも遅いもないのだと、三人はもう知っていた。
ただ、流れる。止まらない。それだけだ。
「痛みが引いた!」
スターリンが立ち上がった。得意げに胸を張った。
「君、腰が痛いんじゃなかったの?」
「痛いには痛い。でも孫たちが来たら立てた。」
「それ、腰より心の問題じゃない?」
「心が体を動かすんだ!」
「……確かに一理ある。」
ピックバーグは渋々認めた。
スターリンは嬉しそうに笑って、庭を横切った。子供たちが集まってくる。アウレルの子、フローラの子、みんながスターリンの周りに群がる。木の剣が振り回される。大きな笑い声が庭を満たす。
「スターリンおじちゃん、強い!」
「当たり前だ!世界一強いんだ!」
「本当に?」
「本当だ!ただし今は腰が痛い!」
「じゃあ弱い!」
「うるさい!」
庭に、笑い声が溢れた。
オーレックスは、その光景を眺めながら静かに笑った。
ここまで来た。ここまで、みんなで来た。
その事実だけで、胸がいっぱいになることが、年を取るほど増えてきた。
第二章 受け継がれるもの
「父上!」
庭園に青年が駆け込んできた。
第一王子。アウレル・ゴールドタスク。
三十代を迎え、黄金王の息子らしく、すらりとした体格に育っていた。母リリアの穏やかな目と、父オーレックスの黄金の牙を受け継いだ、王子だった。
「今日の訓練が終わりました。親衛隊長に三本中二本勝てました。」
「お疲れ様。上出来だ。」
「スターリンおじちゃん、見てましたか!」
スターリンはにやりとした。
「見てた見てた。ただ……あの三本目の剣筋は俺の教えと違う。誰に習った。」
「師匠に内緒で別の訓練をしました。」
「正直に言えるのは立派だ。」
スターリンの目が嬉しそうに細くなった。
「右利きの相手が癖で右側に重心をかける瞬間を狙う剣術です。」
「……悪くない。教えた奴を見せてみろ。俺がさらに磨いてやる。」
「ありがとうございます!」
駆け出すアウレルの背中を見ながら、オーレックスは微笑んだ。
あの子は、どんどん強くなる。
そして、いつか。
「そろそろか。」
オーレックスは呟いた。
スターリンが聞き返す。「何が?」
「冠のことだ。」
短い沈黙が流れた。
庭園の空気が、わずかに変わった。花は変わらず揺れていたが、三人の間に、静かに重たいものが積もった。
「……まだ早い。」スターリンは言った。「まだ早い。」
「うん。」
「もう少し、だな。もう少し。」
誰も、その先を続けなかった。
その夜。
オーレックスは一人、王座の間にいた。
蝋燭の明かりが一本。 その光の中に、黄金の冠。
右手を伸ばした。指先が、縁に触れた。
軽かった。
素材は金なのに、五十年経っても、これが変わらない。
冠の側面に刻まれた文字を、指の腹でなぞった。
何度なぞっただろう。何度読んだろう。
『力によって支配するな。知恵によって導け。』
若い頃は命令に聞こえた。 中年の頃は戒めに聞こえた。 今は、懇願に聞こえる。どうか忘れないでくれ、という。
『民を守る者こそ、王となる。』
民の顔が浮かんだ。橋の落ちた村で老人が泣いた時の顔。盗賊を追い払った翌朝、子供たちが笑った時の顔。戦争が終わった日、誰もが泣きながら笑っていた時の顔。全部、まだここにある。胸の中に。
『黄金とは、富ではない。希望そのものである。』
「分かってる。」
暗い部屋に、独り言が染み込んだ。
「ずっと覚えてる。でも。」
「そろそろ、渡す時が来るな。」
翌日。
アウレルを呼んだ。王座の間で、二人きり。
父と子は向かい合った。アウレルは静かに父を見ていた。緊張と、不安と、覚悟が混ざった目をしていた。若者の目だ、とオーレックスは思った。自分も、この目をしていた頃があった。
「この冠のことを、一度もちゃんと話していなかった。砦で見つけた話は知っているな。」
「もちろんです。」
「しかし。冠が何を言ったか、正確には、誰にも話したことがない。」
アウレルは少し驚いた顔をした。「スターリンも、ピックバーグも?」
「彼らはその場にいた。でも、聞こえたのは、僕だけだったと思う。」
「聞かせてください。」
オーレックスはゆっくりと話した。
あの光の声を。 砦の深い場所で聞いた言葉を。 全部を。
アウレルは黙って聞いていた。
「『黄金とは、富ではない。希望そのものである。』」
最後の一節を繰り返した後、部屋に沈黙が落ちた。蝋燭の芯が小さく爆ぜた。
「父上。冠を受け取る準備は、できています。でも。急がなくていいです。」
「……お前が言うか。」
「はい。私はまだ、父上から学ぶことがあります。もう少し、先生でいてください。」
オーレックスはしばらく黙っていた。
蝋燭の炎が、二人の影を壁に大きく映した。
「ありがとう。」
たった三文字。だが、その三文字に入り切らないものを、アウレルは分かっていた。父親のそういうところを、子供は黙って学ぶ。
「……父上。」
アウレルが少し俯いた。
「私も、ありがとうございます。こんな父のもとに生まれて、幸せです。」
二人はしばらく、同じ冠を見ていた。
父と子の視線が、黄金の上で静かに重なった。
第三章 黄金時代の午後
王国歴六十年。
春。
PIGLIN KINGDOMは、建国以来最大の繁栄を迎えていた。
王立大学の講堂では、若い学者たちが夜遅くまで議論していた。机の上には、ピックバーグが著した古代文明の解読書が何冊も積まれていた。いつか彼は言った。「本は読まれることで初めて完成する」と。今、それが証明されていた。
鉄道網が大陸の端まで延び、汽車の汽笛が玄武岩デルタに響くようになっていた。かつて橋一本で孤立していた村は、今では鉄道の駅を持つ町になっていた。あの橋は今も架かっている。ピックバーグが設計し、スターリンが岩を運び、オーレックスが木を切った、あの橋が。
王立博物館には、「忘れられた砦」から発掘された品々が並んでいた。古代ヴォールト文明の罠の設計図。そして、初代黄金王が愛読した古い本の複製。
歴史家たちはこの時代を「黄金時代」と呼んだ。
当の本人は。
「また書類が増えた。」
机に突っ伏していた。
「五十年以上もやってて今さら?」
リリアが笑った。
「だって。僕は元々、こういう人間じゃなかったから。」
「どういう人間だったんですか。」
「本を読んで、遺跡を探検して、溶岩の音を聞きながらぼうっとしていたい人間。」
「それは知っています。」
「だから、たまに、ぼうっとしたくなる。」
「では、お茶にしましょう。ぼうっとしながら。」
「うん。それが一番いい。」
そんな二人を見て、スターリンが庭から叫んだ。
「いちゃいちゃしてないで書類終わらせろ!」
「うるさい。」
ピックバーグも庭から叫んだ。「君もうるさい。」
「どっちもうるさい!」
庭に笑い声が響いた。
「平和ってのは。」
スターリンが空を仰ぎ、満足そうに呟いた。
「いいもんだなぁ。」
「本当に。」
四人の声が、重なった。
その言葉を、同時に、自然に、言えること。それがもう、十分すぎる答えだった。
第四章 夜のバルコニー
王国歴六十年。
ある夜。
バルコニーに、三人がいた。
星が出ていた。
ネザーでは珍しい、澄んだ夜だった。
「ここまで来るとは思わなかった。」
スターリンが言った。「建国した時。こんな未来になるとは。」
「思わなかったね。」
「俺はさ。」
スターリンは続けた。珍しく、静かな声で。
「昔から死が近かった。毎日戦ってたから。長生きするって感覚がなかった。」
「うん。」
「だから、今こうして生きてると、なんか……意外な感じがする。」
「悪い意味じゃなく?」
「悪い意味じゃない。ただ。いい意味で意外。」
ピックバーグが星を見上げたまま言った。
「僕は、友達ができるとは思っていなかった。」
「知ってる。砦で会った最初、お前、俺たちのこと興味なさそうだったしな。」
「興味はあった。ただ、友達という概念が、あまりピンとこなかった。」
「今は?」
少し間があった。
「今は。分かる。五十年かかったけど、やっと分かった。」
「遅い。」
「遅いね。でも、確かに、学んだ。」
「俺はあの日の路地でもう分かってた。」
「分かってた?こいつら友達になるな、って。」
「……なんで?」
「なんとなく。」
「なんとなくで友達になるな。」
「でも、そうなった。」
三人は笑った。
しばらくして。
オーレックスが静かに言った。
「アウレルも立派になった。そろそろかもしれない。次の時代が。」
スターリンは少し黙った。
「……まだ早い。」
「うん。もう少し、だな。もう少し。」
「もう少し。」
三人は繰り返した。
誰も、「終わり」という言葉を使わなかった。
それでも、三人とも、同じことを考えていた。
その事実が、今夜の星を、少しだけ眩しくしていた。