第五章 出発の朝
王国歴六十二年。
春の早朝。
「なぁ。」
スターリンが言った。
何の前置きもなく。お茶を一口飲んで、ケーキを半分食べてから。
「久しぶりに、冒険しねぇか。あの、青い空がある地上へさ」
「冒険?」
オーレックスは首を傾けた。
「そう。三人だけで。昔みたいに。護衛なし。大臣なし。旗なし。」
ピックバーグが本から顔を上げた。「腰が痛いんじゃなかったの?」
「冒険の前では痛くない。」
「何の理屈だ。」
「本能だ。」
「……どこへ行く。」
オーレックスが聞いた。
「大戦の時に、俺たち三人で駆け抜けた場所。全部さ。」
全部。
その一言が、胸に静かに落ちた。
石が、池の底に沈んでいくように。
「いいね。」
オーレックスは笑った。「行こう。」
「本当に?」
「うん。最後に。」
「最後?」
スターリンが不思議そうな顔をした。
「いや、なんでもないさ。さあ、まずは黒曜石戦争の時に作った、あの懐かしい『地上のゲート』へ向かおう」
王国の境界線にある巨大なネザーポータルの前に、三人は立っていた。
本来、ピグリンがオーバーワールドへ行けば、肉体が腐り、理性を失ったゾンビ(ゾンピグ)になってしまう。
それが世界の絶対的な掟だった。
しかし、オーレックスが歩み出ると、頭上の黄金の冠がかつてないほど強く、温かい光を放った。
かつて世界連合軍を結成し、エンダードラゴンから世界を救った際、黄金の冠は世界の調和の象徴として『地上でも理性を保ち、生きていられる力』を王とその親友たちに授けていたのだ。
「……いつ見ても、不思議な光だな」ピックバーグが眼鏡を押し上げる。
「がはは! これなら地上でも美味いものが食えるってわけだ! 行くぞ!」
紫色の揺らめくゲートを、三人は並んでくぐり抜けた。
出発の朝。
夜明け前。
三人は王宮の門を出た。
誰にも告げなかった。ただ一人、リリアだけが知っていた。
バルコニーに立つ妻の姿が、振り返るたびに見えた。
オーレックスは最後に足を止め、振り返った。
リリアの顔には、「早く帰ってきて」とは書いていなかった。
「行ってきてください。」
そう、書いてあった。行くべき人の背中を、いつも止めなかった。それがリリアのやり方だった。心配しながら、それでも、見送る。そのことに、オーレックスは何十年も助けられてきた。
「行ってくる。」
「……うん。」
それだけ言って、オーレックスは歩き出した。
「なんか、懐かしいな。この感じ。」
スターリンが言った。「荷物が軽い感じ。建国前も、こうだったな。」
「あの頃は何にも持ってなかったけどな!」
「今もたいして変わらない。」
「じゃあ何も変わってない!」
「お前たちの頭の中は確かに変わってない。」
ピックバーグが言った。
三人は笑った。
笑いながら、歩き出した。
朝の光が、三人の長い影を後ろへ伸ばしていた。
第六章 辿り着いた場所
最初に向かったのは、真紅の森の跡地だった。
かつて、炎が夜を染めた場所。
オーレックスの故郷。
「変わったなぁ。」
スターリンが辺りを見渡した。
「本当に。」
かつて炎に溶けた家々の跡地に、新しい家が建っていた。子供たちが走り回っていた。市場の声が聞こえた。あの夜の面影は、何一つ残っていなかった。
オーレックスはゆっくりと歩いた。
父の鍛冶場があった場所。 母がいつも笑っていた台所の辺り。 自分が仰向けに寝転んで、空を見上げていた、あの石畳。
今は全部、別の何かになっていた。
「……悲しいか?」
スターリンが、そっと聞いた。
「いや。」
オーレックスはゆっくりと首を振った。
「良かったと思う。ここが、こうなって。父さんも母さんも、きっとこれを望んでたと思うから。」
スターリンは何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
あの炎の夜から、ずっとそうだったように。
それで、十分だった。
次の日。
かつての古い砦跡に来た。
三人が初めて出会った、罠だらけの砦。
「懐かしいな……。」
スターリンが入口のアーチを見上げた。「四十五年前か。ここで出会った。」
「あの時のことを、今でも細かく覚えてる。」
ピックバーグが静かに言った。
「俺も。感圧板を踏んで矢が飛んできた。」
「飛んできたのはお前のせいだ。」
「でも矢は壁に刺さった。だから俺は無傷だ!」
「幸運だっただけ。」
「幸運も実力のうち!」
三人は笑った。
砦の内部は今や観光地になっていた。歴史遺産として整備され、案内板には「黄金王三人の出会いの地」と書かれていた。
「僕たちが展示物になってる。まだ生きてるのに。」
ピックバーグが呟いた。
「歴史って、そういうものだよ。」
「……そうか。」
オーレックスは、三人が最初に並んで歩いた石畳の上に立った。
あの日、ここを歩いた。三人で。
それが今も、ここにある。
石畳の冷たさが、靴の底から伝わってくる。四十五年前と、同じ冷たさで。
その翌日。
旅の初めに立ち寄った、あの村へ来た。
盗賊団が食料を奪い、老人が諦めた顔で座り込んでいた、最初の村。スターリンが笑顔だけで盗賊を追い払った、あの村。
「大きくなった。もう村じゃない。」
石畳の市場。賑やかな声。笑い声。
「あの老人……どうなったかな。」
オーレックスが呟いた。
「俺もあの時のことは覚えてる。笑っただけで泣いてたじゃないか、あの老人。」
スターリンは市場の人々を眺めながら言った。
「当時は不思議だった。何もしてないのに、なぜそんなに泣くのかって。でも後から分かった。誰にも笑いかけてもらったことが、長い間なかったんだろうな。」
「……当たり前が、当たり前じゃない場所があった。あの頃は。」
ピックバーグが静かに言った。「だから旅に意味があった。」
三人は、賑やかな市場の端に立ったまま、しばらく人々を眺めていた。
誰も気づかない。三人が誰かを。ただの老人旅人が、市場を覗いている。
それでいい。それがいい。
笑い声の中に、あの老人の泣き顔が、重なって見えた気がした。
同じ場所の、別の時間。
両方が本物だった。
第七章 最後の焚き火
三日目の夜。
丘の上。
焚き火を囲んでいた。
満天の星。
「ここ、最初に野宿した場所に似てるな。」
スターリンが草の上に寝転がった。
「あの時は毛布が一枚しかなかった。」
「お前が独占した。」
「記録してあるから否定しないこと。」
スターリンは黙った。笑いをこらえながら、黙った。
「あの夜は寒かったな。食料も少なかった。何も持ってなかった。」
「何も……そうか。何もなかった。」
スターリンが炎を見た。揺れる炎を、じっと、静かに見た。
「今は。」
「腹いっぱいだ。温かい。隣に、友達がいる。」
「だから。」
「幸せだな。」
その言葉には、いつものような豪快さがなかった。
静かな声だった。低く、確かな声だった。
ピックバーグは本を閉じた。
オーレックスは炎を見た。
「建国して。黒曜石戦争して。エンダードラゴンと戦って。それでも今、こうして三人でいる。奇跡みたいな話だ。」
「そうだな。」
炎の音だけが、しばらく、会話の隙間を埋めた。
それから。
スターリンが、少し間を置いて言った。
「ありがとな。」
「二人とも。友達でいてくれて。」
「……。」
沈黙。
こんな言葉を、スターリンが言うのは珍しかった。
いや、珍しくはなかった。思えば大事な夜には、いつもこういう言葉を、この男は口にしてきた。照れながら、笑いで包みながら。
しかし今夜は違った。
笑いがなかった。ただ、真っ直ぐだった。
「こっちこそ。」
オーレックスは言った。「お前みたいな親友、他に一人もいない。」
「俺も。」
「僕も。」
ピックバーグが言った。「感謝してる。二人に。友達というものを教えてもらった。」
「お前が言うか。」
「僕が言う。」
「五十年かかったけどな。」
「うん。五十年かかったけど、確かに、学んだ。」
スターリンは笑った。
初めは小さく、それから豪快に、いつものように笑った。その笑い声が夜空に広がった。炎が揺れた。どこかで虫が鳴いた。
そして。
「腹いっぱいだし。いい話もしたし。俺、先に寝る。」
「早い。」
「満足したら眠い。」
「それは本当に単純だね。」
「単純で何が悪い。」
スターリンは帽子を目深に被り、草の上に横になった。大きな背中が、炎の光に浮かんだ。
「スターリン。」
オーレックスが言った。
「ん?」
「おやすみ。」
「ああ。」
少し間があった。
「おやすみ。また話そうな。絶対また。」
「うん。」
「絶対な。」
「……ああ。絶対な。」
その言葉が、夜の空に消えた。
炎が、ゆっくりと小さくなった。
ネザーの狭い天井には決してない、地上のどこまでも広大な夜空に、星が一つ一つ白く輝いていた。
オーレックスとピックバーグは、しばらく無言で炎を見ていた。言う必要がなかった。言葉にしてしまうと、何かが崩れる気がした。
やがて炎が消えた。
闇の中で、星だけが残った。
第八章 親友
朝。
ネザーには決してない、冷涼で澄んだ空気が三人を包んでいた。
草の露が、朝の光を丸く受けて光っていた。
小鳥が鳴いていた。
ピックバーグが目を覚ました。
空を見た。青かった。
隣を見た。
スターリンが、変わらない姿勢で横になっていた。帽子をかぶったまま。昨夜と同じ、穏やかな顔で。
ピックバーグはしばらく、その顔を見ていた。
研究者の目で、見た。
そして。
静かに、オーレックスの肩を揺すった。
「オーレックス。」
「ん……。」
「起きて。」
オーレックスは目を開けた。青い空。草の匂い。
「スターリン。」
オーレックスは、肩に手を置いた。
「朝だよ。」
返事はなかった。
「スターリン。」
もう一度、呼んだ。
返事はなかった。
風だけが、草を揺らしていた。
長い、長い時間が流れた気がした。実際には数十秒だったかもしれない。それでも、長かった。
「……。」
ピックバーグは、帽子を取った。眼鏡を外した。目元を、静かに拭った。
研究者は事実を記録する。だから、涙は一瞬だけ許した。一瞬だけ。
オーレックスは、スターリンの手を握った。
まだ少し、温かかった。
その温もりが、朝の空気に、ゆっくりと溶けていった。
「……最後まで。」
ピックバーグが言った。声が、わずかに震えていた。
「君らしいね。騒がしく生きて、静かに眠るなんて。」
「帽子まで被ったままで。」
長い沈黙。
やがて、オーレックスは顔を上げた。
空を見た。青い空。雲がない。
「ありがとう。」
「親友。」
「また。」
「いつか。」
「会おう。」
その言葉が空に消えると同時に、風が吹いた。
草が揺れた。
まるで。
『おう!またな!待ってるぞ!』
という、あの豪快な声が、遠くから転がってくるような気がした。
彼らはその丘に、スターリンを葬った。
星がよく見える場所に。 彼が好きだった、大きな木の下に。
墓標は、石一つだけ。
飾らない。派手なものは何もいらない。豪快に生きた男には、豪快に眠れる場所があれば、十分だった。
帰り道は、長かった。
二人になった帰り道は、行きより倍の時間がかかるように感じた。
歩き方は変わっていない。
ただ。
隣に、あの笑い声がなかった。
それだけで、道が変わった。
王都の門が見えた時、バルコニーにリリアが立っていた。
何も言わなかった。ただ、オーレックスの顔を見て、全てを理解した。
すぐに降りてきて、夫の手を握った。
それだけだった。それで、十分だった。