第三章 王の運命の出会い
「ありがとうございます。」
少女は、優しく微笑んだ。
夕日に照らされた噴水広場。本のページが、風のないはずの街で、熱気に押されるようにわずかにめくれた気がした。
オーレックスは、しばらく言葉が出なかった。
「あの……?」
「あっ!」
「ご、ごめん。」
「本が多いね。」
ようやく口を開いた言葉は、ひどく当たり前のものだった。けれど、それが今は、何より大事な言葉に思えた。
少女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「王立図書館で借りてきたんです。」
「本が好きで。」
「そうなんだ。」
「僕も好きだよ。」
「本当ですか?」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。噴水の光よりも、ずっと眩しかった。
「歴史書とか?」
「冒険記とか。」
「あと、古代文明の本も。」
「えっ!」
「私もです!」
二人は、思わず笑った。世界の広さに対して、好きなものが重なる確率は、決して高くないはずだった。それでも、こうして重なってしまうことが、ある。
「私はリリア。」
「リリア・フローレンスです。」
「僕は……。」
オーレックスは、一瞬、考えた。
名乗るべき名前は、決まっていた。けれど、その名を口にする瞬間、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。嘘をついているわけではない。ただ、今だけは「王」ではなく、ただの「誰か」として、この出会いを大事にしたかった。
「レックス。」
「親衛隊の兵士。」
「レックスさん。」
リリアは、微笑んだ。
「ありがとうございます。」
「助かりました。」
「いや。」
「こちらこそ。」
「楽しかった。」
「え?」
「いや、なんでもない。」
リリアは、くすっと笑った。
「変な人ですね。」
「よく言われる。」
それは、本当のことだった。ピックバーグにも、スターリンにも、よく言われる。今日だけは、それが「王として」ではなく「ただのレックスとして」言われたことが、たまらなく愉快だった。
「ふふふ。」
二人は、笑い合った。
気付けば、空は赤く染まっていた。グロウベリーの光と、夕焼けの色が混ざり合い、噴水の周りだけ、世界がほんの少し優しい色をしていた。
「大変!」
「もうこんな時間!」
リリアは、慌てて本を抱え直した。
「これ、ありがとうございました。」
本を受け取りながら、オーレックスは、ふと、その一冊の隙間に、小さな何かが挟まっているのを見た気がした。けれど、それを確かめる前に、リリアは、もう一度、こちらを見上げていた。
「また会えますか?」
その言葉に、オーレックスは目を丸くした。
「え?」
「あっ!」
「その……。」
「今日、お話して楽しかったから。」
「迷惑でしたか?」
「そんなことない!」
オーレックスは、思わず大声を出した。普段の彼を知る者が聞けば、誰もが驚くような声量だった。
「ぜひ!」
「また会いたい!」
「……。」
今度は、リリアが驚いていた。
そして、二人は笑った。
「じゃあ。」
「また。」
「うん。」
「また。」
そう言って、少女は、夕暮れの街へ消えていった。
歩いていく後ろ姿が、橙色の光の中に、ゆっくりと溶けていった。
その姿が見えなくなってから、ようやく、オーレックスは自分の手の中に視線を落とした。本の隙間から、小さな押し花の栞が、はらりと落ちていた。それを、慌てて拾い上げ、上着の内側に、そっとしまった。気づかれなかったことに、少しだけ、安堵した。
その頃。
王宮。
「終わったぁぁ!」
レッドは、机に突っ伏していた。冠が、机の端で、かたんと音を立てた。
「もう二度と王様なんてやりません!」
スターリンは、大笑いしていた。
「はっはっは!」
「いい経験だったろ!」
「寿命が縮みました!」
「お疲れ様。」
ピックバーグは、苦笑した。山のような書類の中に、判の押し間違いが何箇所かあったが、それは、また後で直せばいい話だった。
すると。
王宮の扉が開いた。
「ただいま。」
オーレックスが帰ってきた。
「おう!」
スターリンが振り向く。
「どうだった?」
「兵士生活は?」
「楽しかった?」
「うん。」
「すごく。」
オーレックスは、珍しく笑顔だった。それも、戦に勝った時の達成感とは、まったく違う種類の笑顔だった。
「……?」
スターリンとピックバーグは、顔を見合わせた。
「なんだ?」
「様子が変じゃないか?」
「まさか。」
ピックバーグが、目を細めた。観察者の目が、何か小さな違和感を、見逃さなかった。
「……。」
「いや。」
「まさかね。」
二人は、そこで言葉を止めた。長年の付き合いで分かることもあれば、わざと聞かないでおくべきことも、ある。今夜は、後者だった。
翌朝。
王宮の庭園。
朝の光が、グロウベリーの蔓に滲んで、淡い金色を散らしていた。
オーレックスは、昨日もらった栞を、そっと眺めていた。
本の間から落ちてきた、小さな押し花の栞。
リリアのものだった。乾いた花弁は、もう色を失いかけていたが、それでもどこか、温かみを残していた。
「……。」
自然と、笑みがこぼれる。
すると。
「陛下。」
ピックバーグが現れた。
「朝からニヤニヤして。」
「気持ち悪いよ。」
「え!?」
「してない!」
「してる。」
「してない!」
「してる。」
「してないって!」
そのやり取りを見て、スターリンが吹き出した。
「はっはっは!」
「こいつ!」
「恋してやがる!」
「違う!!」
「顔真っ赤だぞ!」
「違うってば!」
王宮中に、笑い声が響いた。
戦争のない朝。
穏やかな風。
そして。
黄金王の、少しだけ特別な毎日。
英雄たちにも、こんな平和な時間は必要なのかもしれない。剣を握り続けてきた手のひらに、今は、小さな栞だけが、そっと収まっていた。
数年後。
歴史家たちは、この日をこう呼ぶことになる。
「黄金王と王妃の、最初の出会いの日」
と。
しかし。
今のオーレックスは、まだ知らない。
この少女と共に、笑い、泣き、支え合い、未来を歩んでいくことを。
そして。
二人の子供たちが、次の時代を担うことを。
それは、もう少し先のお話。
今はただ。
一枚の栞と、一つの約束だけが、確かに、ここにあった。
PIGLIN KING
第四巻 ささやかな日常と小さないたずら
完